“1890, a western tourist pays to wear a samurais armor”. Behold the first weeb!


翻訳元 





海外の反応





1・どこかの外国人
これは私が見た中で最もキモオタっぽい髭だ。




2・どこかの外国人
>>1
冗談はさておき、この男は本物の日本オタクに見える。彼の目が、それを物語ってる。




3・どこかの外国人
>>2
彼がメガネをかけたままにしていたのが面白いね。




4・どこかの外国人
その男は日本の伝説になった。彼をチェックしてみろ。世界中に住んでいたんだ。そして、本をたくさん書いた。現在は博物館となっている松江城のすぐ近くに家があった。



5・どこかの外国人
>>4
彼がいなければ、日本の民話の多くが失われてしまいる。彼は伝統の保存とオーラル・ヒストリー(
口述歴史)の記録に努めた。ラフカディオ・ハーンは知られていない(彼の名前を知っている人は誰もいないほどではないが)。彼は、小泉八雲として知られている。



6・どこかの外国人
>>5
日本人が彼をウィーブだと思ったことは一度もない。彼らはいつも、ラフカディオ・ハーンが自分たちの文化を見つけ出すことで、失われたものを取り戻せると思っていた。彼は、何らかの理由で熊本が大嫌いだったらしい。




7・どこかの外国人
>>6
そう、彼らは、彼のことをウィーブだとは考えてないと思う。彼は、ほとんどの西洋のウィーブが夢見る道を歩いただけだ。実際の彼は、日本文化の保存に絶大な貢献をした人物。そうであるにもかかわらず、彼をウィーブと考えるのはちょっと面白いね。彼は半分アイルランド人なのに、ラフカディオ・ハーンはここではあまり知られてないんだよ。彼が日本ではとても重要な人物なのに、ここでは知られてないのは、ちょっと驚き。

(現実的には、彼がアイルランドで多くの時間を過ごしてないけど、私たちのこの小さな国と関係が希薄なのは悲しいことだ。)



8・どこかの外国人
>>7
あなたの言う通り、彼はウィーブの元祖で、すべてのウィーブの夢を生きた。




9・どこかの外国人
>>8
私が思うに、妖怪の物語を記録する体験は夢のようなものだ。(笑)




10・どこかの外国人
>>9
同感。私は彼のおかげで妖怪が大好きになった。




11・どこかの外国人
>>10
同じ!数年前にダブリンで「ラフカディオ・ハーン祭り」があって、街の中心にある教会でドラマチックな朗読を聞けたんだ。素晴らしい体験だったよ。




12・どこかの外国人
>>7
ウィーブと本物の歴史家の間には、大きな違いがあると思う。彼は感謝と保存の努力で、その(人種/言語)ギャップを埋めることができた。


明治時代初頭に廃城令によって松江城は陸軍省所管となり城内の建物は全て解体され売却される予定だったが、地元の有志によって天守閣だけは買い戻されて解体を免れた。近年、二の丸の櫓が復元されるなど往年の姿を取り戻しつつある。


小泉 八雲(こいずみ やくも)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。




13・どこかの外国人
私は、彼が鎧の写真を撮ったことは気にしない。ただね、それは刀を速く台無しにする法だ。




14・どこかの外国人
>>14
どうも外人には、良い刀を貸していなかったらしいよ。




15・どこかの外国人
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホも同じ頃にウィーブだった。




16・どこかの外国人
>>15
いや、それは特定の日本人アーティスト(葛飾北斎など)の名前を知らない人からの芸術鑑賞にすぎない。




17・どこかの外国人
>>16
すまん、冗談のつもりだったんだ。この写真に写っている男もそうだ。彼は日本の鎧を鑑賞してるだけ。




18・どこかの外国人
>>17
私は彼の博物館を訪れるまで、このことを知らなかった。そして、それは私の心の琴線に触れた。彼は、私がティーンエイジャーの頃と同じように、大好きな日本のアーティストの作品をコピーした。ただ、彼は北斎を、私は鳥山を写していた。




19・どこかの外国人
そしてクロード・モネも。


フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ[注釈 1](Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダのポスト印象派の画家。


クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家。代表作『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になった。




20・どこかの外国人
彼は日本に住んでいて、今までで最も不気味なサムライの幽霊話をいくつか書いたが、70年後には日本映画の傑作「怪談」になり、カンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した。SUPER☆AMAZING CINEMA見て!アイルランドの古い妖精の物語やジョニー・キャッシュの歌に出てくる、呪われた男についての古典的な西洋の怪談の言い回しを、封建時代の日本の非常に特殊な性質、その社会とそれの制約とを組み合わせてたりする。この映画のために、サッカー場ほどの大きさのセットが作られた。完全にクレイジーなサイケデリック映画。




21・どこかの外国人
てかね、お前ら・・・それラフカディオ・ハーンの写真じゃない。




22・どこかの外国人
>>21
まあ、ラフカディオもおそらくこれをやっていたさ。もっと早い時期にね。




23・どこかの外国人
1890年代は、日本に対する欧米の非政治的関心という点で、1990年代とよく似ていたと考えると興味深いね。

かなりニッチだが、多くのファンを魅了するクールな場所だと見られていたんだよ。
1900年代は2000年代と同じように主流になったけど。
実際に政治的な理由で支持を失ったのは1920年のことだった・・・。



24・どこかの外国人
>>23
悪いけど、1990年代「西 」が日本に関心を持たなかった時代だと考えるのは、少し混乱する。1980年は、日本が経済的に世界を席巻し、超大国として君臨するのではないかと世界中が心配していた時代だった。その遺産は90年代から00年代に浸透していっただけ。




25・どこかの外国人
当時の日本人は小柄だったので、写真の鎧が彼にぴったりなのに驚いたよ。(笑)



管理人

6・どこかの外国人
>>5
日本人が彼をウィーブだと思ったことは一度もない。彼らはいつも、ラフカディオ・ハーンが自分たちの文化を見つけ出すことで、失われたものを取り戻せると思っていた。彼は、何らかの理由で熊本が大嫌いだったらしい。

このコメの熊本うんぬんって何のことかなと思って調べてみると、それらしきものがあったので載せますね。


ハーンは神道の息づいた松江と土地の人々や生徒をこよなく愛しました。しかし,山陰の冬の寒さを避け,妻の家族を養うために高給を必要として,一年で熊本の五高へ移っています。

ところが,神々の国の首都松江と違い,西南戦争の爪あとの残る焦土の街熊本を、ハーンは気に入らなかったようです。既に大人の年齢に達した生徒たちも,教師に対して生意気な対抗心を持ったようです。松江の中学生の純粋さに慣れたハーンは,意外に思ったのでしょう。また,九州男児の気質というか,教師に馴れ馴れしくしないところも物足りなかったようです。

こうして,ハーンは熊本で初めて日本への失望感を味わうことになります。西洋を脱出して極東の日本までやってきたハーンが,その日本に失望し始めたのです。すでに日本女性と結婚して,熊本時代の半ばに長男一雄が誕生しています。こうした状況の中で,近代化していく日本を嫌ったのです。ここに独自の境地を拓くまでのハーンの苦悩があったのです。引用元





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