「1274年のモンゴル帝国が、暴風雨に襲われて艦隊が崩壊することなく、首尾よく日本に侵攻したらどうなってたかな?その遠征はどのような結果になっただろう?」


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翻訳元




 反応⇩⇩⇩


1・どこかの外国人
彼らが、日本全土を征服できたとは思えんな。彼らは、日本で利害が一致してる派閥と同盟を結べば良かったかも。



2・どこかの外国人
>>1
日本人は団結して彼らを滅ぼそうとするわ。



3・どこかの外国人
>>1
それはモンゴルにとって悲しい問題だった
。日本国内に同盟国はなかったからね。


4・どこかの外国人
アジアの多くの部族もモンゴル人と共に戦うことになっていたが、結局そうならなかった。



5・どこかの外国人
>>4
本当にね。何が起こったかを見るのは面白い。



6・どこかの外国人
>>1
絶対違うから。鎌倉政権は堅実だったけど、それほど評判は良くなかった。皇族とその支持者はこの戦争を望んでなかったし、10万人の兵力と火薬を積んだモンゴル軍が博多湾を攻略すれば、(自身での)日本の統一は決して実現しなかったはずだ。



7・どこかの外国人
仮にモンゴル人が日本に足場を築いたとしても、彼らはおそらくかなり早く追い出されたか、少なくとも当初の領土をはるかに超えることはなかっただろう。日本は(モンゴルにとって)かつてのような戦いではなく、島であったため、突撃して敵を圧倒することはできず、一度に大量の部隊を送り込むことも出来ない。逆に諸藩が結束して共通の敵と戦うために日本軍に圧倒されることになる。最終的には、カミカゼのような自然現象によるものであれ、日本人によるものであれ、モンゴル船は破壊される可能性が高いと思うがな。



8・どこかの外国人
>>7
モンゴル人はインドネシア諸島の一部も侵略しようとしたが、失敗したはず。俺が間違っているかもしれんが。



9・どこかの外国人
>>7
それは、モンゴル人の戦い方じゃない。モンゴル人が得意としていたのは分割統治だ。



10・どこかの外国人
日本の地理は日本人にとても有利だった。橋頭堡(拠点)がほとんどないということは、日本軍は橋頭堡を守り、失った場合には再び攻撃できるということだ。島は平野が少なく、ほとんどが山で、騎兵には向いてないしね。

日本軍の逆襲に対抗して、巨大な兵力を上陸させ、橋頭堡を確保することに成功したとしても、日本軍のゲリラ戦に直面することになる。もし侵入したとしても、すぐに彼らは敗北し、船がまだあったなら、退却せざるを得ないだろうさ。
第2次世界大戦でのコロネット作戦について読んできな。なぜ日本を侵略することが、本当に難しくバッドアイデアなのかを説明してるから。数なんかより地理と兵站こそが戦争に勝つ鍵。


11・どこかの外国人
>>10
嵐が彼の艦隊を殺した言い訳ができず敗北した場合、カーン(ハーン)の評判はどうなってたかね?



12・どこかの外国人
>>11
おそらく違いはない。普通のモンゴル人や征服された人がニュースにアクセスできたわけじゃないし。結局、同じくらいの人が死んでるしね。時系列で見ると、モンゴル人は日本にいくらかの軍隊を上陸させた(いくつかの島だったと思う)が、最終的に敗れた。



13・どこかの外国人
>>12
彼らはいくつかの島に上陸した。そのうちの1つは対馬島で、そこでは幽霊が現れて、待つことができなかった。


※ウィキを見たり検索いろいろかけてみたんですが、そのような一次資料の存在等は確認できませんでした。ただ、マンガの「アンゴルモア 元寇合戦記」に、そのような描写があるようです。私は読んだことがないのと、それが事実に基づいたものなのかはわかりません。

【中古】 アンゴルモア 元寇合戦記(第九巻) 角川Cエース/たかぎ七彦(著者) 【中古】afb


14・どこかの外国人
悪いけど、戦争が長引けばモンゴルは勝利したと思う。鎌倉政権下の日本は戦国時代とは比べ物にならない。皇族とその臣下はクビライに従属しようとしたが、将軍が介入したんだよ。モンゴル人が博多湾を占領した場合、多くの人が考えているような一族の団結は、ほぼ間違いなく起こらない。(南)宋がクビライに落ちれば、鎌倉・日本にはほとんどチャンスがなかっただろう。



15・どこかの外国人
>>14
ちょっと尋ねるが、君の言う当時の幕府の内政は合っているかもしれないけど、長期的に見て、なぜモンゴルが勝つと?日本の地形は、多くの山が1つにまとまっているわけではないんだよ。



16・どこかの外国人
>>15
クビライと将軍たちは、中国南部の山岳地帯での戦いから学んだ教訓をもとに、すでに宋との戦いから戦術を発展させていた。モンゴル人、特にクビライの将軍たちは、日本ではそれほど愚かではなかっただろうし、彼らは何十年にもわたって宋と戦った後、忍耐力を得ていた。だから、他の場所と同じように素早く適応できたはずだ。また、幕府内部の争いがあれば、モンゴルに勝利をもたらすには十分だったと思う。どうやら、モンゴル人が持っていた火薬爆弾は、日本のアドバンテージを打ち消していたようだしね(私はその部分を読んでいないが、役立っただろう)。



17・どこかの外国人
日本は地理的に農業に向かない。採掘にはもっとダメ。海岸防衛やゲリラ戦には最適。
上陸して橋頭堡を確保できれば、信長の台頭以前の諸部族を統一していた可能性があると思う。


18・どこかの外国人
火薬と銃器の技術はヨーロッパよりもアジアに早く到来してたかもしれない。



19・どこかの外国人
>>18
なぜ日本への侵攻が成功すればヨーロッパを越えてアジアに銃器が供給されんだよ?銃はヨーロッパ起源だ。火薬はもともと中国で作られたものだが、花火や軽い爆薬にしか使われなかった。朝鮮人はそれをH
wacha
に使うことができたが、極東に銃器はなかった。

「Hwacha 」の画像検索結果

hwachaまたはhwach'aは、15世紀の朝鮮で開発されたロケットランチャーのようなデザインをした武器。動力を利用し100~200の矢を発射できた。別ものは数十個の鉄の矢またはボルトを銃身から発射できた。
 ウィキペディア(英語)

※ウィキには15世紀とありますが、元寇のときには既に使われていたようです。元々は宋が開発した
火箭(かせん)、飛火槍などの改良型?かもです。


20・どこかの外国人
モンゴルの戦争について、俺が理解しているのは、彼らは基本的に馬を使って長距離を移動したということだ。彼らが船員だとは思わない。



21・どこかの外国人
>>20
君の言う通りだ。ただ、モンゴルは2度も日本本土に上陸しようとしたけど、台風のために船団が崩壊し、失敗した。スレ主は、もしそれらの台風が艦隊を破壊しなかったらどうなってたかを尋ねてるんだよ。



22・どこかの外国人
モンゴル人は非常に適応性が高かった(支配者にもよるが)。中国南部の亜熱帯の丘陵地帯や山岳地帯のジャングルでは、大騎兵は基本的に役に立たない事を知った。中国南部には数千もの川や湖があり、それらは艦隊や海兵隊によって守られていたんだ。モンゴル人は、中国南部の要塞/城、城壁都市、防衛海軍を征服するために、歩兵、海軍、海兵隊を導入していったんだ。



23・どこかの外国人
>>21
宋の要塞都市である襄陽(現、
湖北省襄陽市)の包囲には、約10万人の兵士による、モンゴル海軍と陸軍の共同侵攻が含まれていた。元と宋帝国の最後の戦いは、実は水上戦だったんだ。中央アジア・中東への侵攻の際には北軍の攻城技術者や火薬の専門家を起用していたし、宋王朝や中国南部の大理帝国への侵攻の際には、ペルシアの技術者による釣り合いおもりを製作させてた。元寇の際には、モンゴル帝国は軍船を大量に建造したんだよ。
モンゴル人はまた、中東、東欧、中央アジア、東アジアでの支配に現地で徴兵して軍隊にしていた。

大理国は、937年に白蛮出身の段思平が南詔にかわって樹立した国家。現在の雲南地方を主たる領域として統治していた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。 1094年、高昇泰は段氏の皇帝を廃し、国号を大中、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した。 ウィキペディア



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※管理人
未だに台風によって日本は助かったと思ってる人いるんですね・・・。

今の教科書がどのように記載されてるのか知りませんけど、私が習った当時はカミカゼ万歳でした。何故、日本の教育は史実を教えないんでしょうかね?それとも、近年までわからなかったとでも?なわけないですよね。